権力のチェック機能を果たしているのか、2020年東京五輪準備に見るスポーツ報道問題

(大学体育会ラグビー部出身の遠藤五輪担当相(左)と森組織委会長。 橋本大周撮影)

(ATR Japan) きょう7月24日で、2020年東京五輪パラリンピック大会開催まであと5年となった。にもかかわらず、新国立競技場の建設など五輪にまつわる課題が山積し、開会式まで至る道は遠い。その問題の一つが日本のスポーツ・ジャーナリズムの機能不全だ。2012年11月15日に新国立競技場の建設費が1300億円と発表された際、その数字を疑った日本のジャーナリストはいなかったのだろうか。この年開催されたロンドン五輪で、建築家ザハ・ハディッド氏が新国立競技場と同様に水泳センターの建築デザインを担当した。この際にもコスト超過が分かり、計画を削っても当初予算の約3倍に達する約522億円にまで膨れあがった。この件に限らず、五輪担当記者ならばザハ氏が「アンビルドの女王」の異名を取ることを知っていて当然だ。これから類推すれば、1300億円で収まらないのは自明の理だった。

当時、朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の在京6紙のうち、この建設費問題を報じたのは朝日の一紙だけだった。「総工費1300億円、道筋立たず 新国立競技場デザイン発表」と銘打った記事で、財源の不透明性や負担割合を疑問視した。ただ、予算超過を予期して指摘することは無かった。この約1年後の2013年9月8日に東京招致が決定し、翌10月に総工費が当初予算の2倍以上となる3000億円になることが判明した。この際、東京と毎日が建設計画に疑問視したが、11月に総工費1785億円とする見直し案が発表されると、報道は沈静化した。

2014年5月になり日本スポーツ振興センター(JSC)の有識者会議で総工費1625億円の基本設計案が承認されると、「国立競技場 新たな夢舞台に期待する」(産経)など一部を除き、新国立競技場計画を疑問視する報道が時折あった。建設費問題が再度クローズアップされたのは約1年を間に置いた今年2015年5月、下村文科相が舛添都知事に費用負担を要請してからのことだ。この際、「国立競技場 甘すぎた構想、猛省を」(朝日)、「新国立競技場 日本の信頼損なう変更だ」(産経)、「目にあまる新競技場の迷走」(日経)、「五輪専任相 新国立競技場への不信を拭え」(読売)と、世論に先行されるかたちで一斉に大批判に転じた。ここでも、従来指摘される横並びは変わらなかった。

新国立競技場の建設費問題にマスコミの五輪担当記者が薄々気づいていながら、警笛を鳴らすことが無かったのはなぜだろうか。これには日本のスポーツ・ジャーナリズムの構造的な問題が横たわっている。まず、スポーツ記者採用時の問題がある。マスコミ各社は運動・スポーツ記者は別枠で採用することがある。たとえば、共同通信の場合、記者、運動記者、英文記者、写真・映像記者など6種の記者職採用枠がある。運動部記者の場合、取材対象の特殊性や限定性から、大学体育会出身者の採用が多々あるのは周知の事実だ。中には縁故採用のようなものもある。辛苦を共にした大学体育会者の絆は固い。慶応大学三田会のビジネス界での結束の強さはよく知られるが、それにもまして、スポーツが伝統的に強い早稲田大学や明治大学の体育会組織の結束力は格別だ。

これが時としてマイナスの方向に働いてしまう場合がある。共同通信のある記者はこう語る。「取材上でなにか問題が発覚したとき、それに関係する体育会出身者の行動は素早い。一瞬にして箝口令が敷かれ、徹底される」。体育会の掟が、ジャーナリズムの良心よりも優先されるのだ。体育会の仲間を口では批判しても、記事にして追及することはほとんど無い。早稲田大学体育会ラグビー部OB会員の森喜朗・組織委会長を真正面から批判する記事がこれまで少なかったのは、スポーツ記者に体育会出身が多いことにも関係しているのだろう。体育会を頼りに生きてきた者のインナーサークル的ないびつな論理がまかり通る。

二つ目は「審議会」や「委員会」といった権力側の用意した甘いポジションにスポーツ・ジャーナリストが取り込まれることもある。そこでは権力側が用意した結論ありきの議論がなされ、審議の証拠を残すためだけの御用学者が多くを占めることもあることがよく指摘される。権力は得てして、静かに何気なく近寄って、悟られずに批判者を取り込むというのが常套手段だ。権力を監視するはずのジャーナリストであっても知らぬ間に懐柔されている場合がある。権力者はこれを明言したりする下手は打たない。その人物に一線を越えたという自覚がなくとも、漠然とした後ろめたさを芽生えさせるだけで十分。気づいたときには口封じをされているというわけだ。ナチス・ドイツのゲッペルズしかり、帝国陸軍の鈴木庫三しかり、歴史で繰り返されている。

東京五輪組織委にメディア委員会という助言組織がある。「大会を成功に導くための諸課題についてメディアの視点からアドバイスや検討をする」として、2014年9月に組織委理事会で承認されて設置された。委員長にフジ・メディア・ホールディングスの日枝久代表取締役会長、副委員長に共同通信の石川聡相談役をはじめ、朝日、毎日、読売、日経、産経、共同、時事や在京キー局のスポーツ担当幹部ら計36人で構成する。この裏側で、フジ系列で五輪に批判的なコラムニストを左遷させられ、浅田真央選手を揶揄するかのような森会長の発言を記事にした共同通信がパージされる事件があった。権力側のアメとムチの策略のにおいがする。

記者会見で筆者はこの委員会委員のジャーナリストとしての独立性について質したが、組織委の森喜朗会長は「どこが問題なのですか」と不快感をあらわにし、武藤敏郎事務局長がその場を取り繕った。この際、ATRがこれを報じると、これ以降組織委から記者会見の案内は途絶え、事実上の出入り禁止処分となった。一方、このニュース価値が低かったのか、この委員会の存在を報じるこれら国内の報道機関はほとんど無かった。この委員会が設置されてから半年間、新国立競技場問題が沈静化した。組織委とメディア委員会が符丁を合わせていたかのようだ。

1988年長野五輪で、招致委員会が会計帳簿を紛失する事件があった。招致段階から地元の信濃毎日新聞が深く関わり、その後開催が決まってからは共同通信などが組織委に人材を送り込むことになった。招致委や組織委に対して第三者としてチェックするジャーナリズム組織が存在しない状態で、この事件は闇に葬り去られた。2020年東京五輪パラリンピックでも同じことが起こらないとは限らない。

最後は五輪取材の特殊性とスポーツ記者の特性の問題だ。一般的なスポーツ取材とは違い、五輪取材は特殊だ。大会の競技そのものを取材するというよりも、政治や経済、社会や外交、そして技術や文化と五輪の大会や組織にまつわる幅広い分野の問題を扱う。スポーツ記者は通常、選手や監督のコメントを取って、記事にする仕事が多い。数字といってもゲームのスコアや選手の推定年俸を扱うことがせいぜいで、組織の財務諸表を分析するようなことは滅多に無い。五輪取材では広い分野での基礎的な素養が求められているものの、そうした知識や経験を持ち得る記者が少ないことが問題を放置することにつながってしまう。

また、取材先が活躍した選手といった特定の人物が唯一対象になり、他に取材すべき方法が無い場合が多くある。このような状況では、たとえば大学体育会のつながりが強力に機能する。先輩である記者が、後輩である選手を取材することなどざらだ。取材先とジャーナリストの信頼関係が最も重要で、批判をしにくい状況に陥る。事件記者が唯一の取材先である警察官や検察官を批判できないのと同じだ。

スポーツ分野を含め、ジャーナリストのプリンシプルとはなにを指すのだろうか。Independence(独立性)、Integrity(インテグリティ:人格的な統合性・誠実性)、そしてProfessional Skepticism(職業的懐疑主義)がまず挙げられる。権力側の委員会や審議会に属したのでは独立性は保たれず、批判などできないし、市民社会との信頼性も担保できない。インテグリティが無ければ取材先との信頼の上に成り立つ取材なども無い。そして、職業的懐疑主義、すなわち批判的視座が無ければ、問題を掘り起こすことも無い。

そして何より重要なことは、権力を監視する「社会の木鐸」「Watch Dog(番犬)」であることだ。英国の作家でジャーナリストだったジョージ・オーウェルはジャーナリズムをこう表現した。「報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報にすぎない」。(小田光康)